2007年06月11日

[原稿]安部公房ー技術と芸術が再会する場所

これは、郷土誌「あさひかわ」2007年4月号に寄稿させていただいた文章です。今回、あさひかわ社のご厚意によって、ウェブで公開させていただく許可を得ました。

安部公房ー技術と芸術が再会する場所


 前稿(*1)で、安部の小説を「画期的な文学の新製品」と表現したが、それは安部ほど技術と真正面から向き合い、かつ高度な表現技法を用いて鮮烈な作品を発表し続けた作家は他に見当たらないと思ったからだ。
 安部の小説には、『第四間氷期』『人間そっくり』『R62号の発明』『鉛の卵』などのSF作品だけでなく、SF的要素もしくは技術的要素が埋め込まれた作品が多数見受けられる。例えば、『他人の顔』におけるプラスチックの仮面、『箱男』における<<箱の製法>>などが挙げられる。
 そして、よく知られたことであるが安部は新製品好きであった。自動車、カメラ、テープレコーダー、シンセサイザー、ワープロなどの新製品が出るや否や、購入してしまったというエピソードには事欠かない。
 何故、安部はそこまで技術にこだわったのだろうか?いや、それは適切な質問ではない。むしろ、安部以前の作家たちが技術に無関心過ぎたのではないだろうか?時として、優れた技術はそれ自体芸術であると言われる。また、英語のアートには芸術のほかに技術という意味もある。原始の芸術には道具という技術が不可欠であったことを思えば、技術と芸術が同一の根元から出発したことは決して偶然ではないのだ。
 ならば、芸術家が技術に無関心でいる方が理由を求められるのではないだろうか?一部の作家・評論家たちが、安部の小説を文学の本流から外れた異端児と見なし、批判し続けた。しかし、彼らの側から、技術もしくは技術と芸術の結びつきに関する言及はなされただろうか?詰まるところ、それらの多くは、技術に目を向けてこなかった者たちによる近視眼的批判に過ぎないものと思われる。
 以上のように、安部の小説世界の根底には、技術と芸術を再会させようという大いなる企みが感じられる。手法に関して言えば何もないところから出発し、技術の周辺で新たに発生しようとしていた諸問題を芸術の芽として捉え、それらを自らの作品に取り込むことによって、多数の傑作・問題作を発表し続けた安部の着眼点には素晴らしい先見性があり、これこそが世界中において未だ尚新たな読者を誕生させ続けている安部の小説の力なのだと思う。技術と芸術が再会する場所、安部の小説世界をそのように捉えると、また新たな補助線が一つ引けると思う。

 ー現代では技術と芸術という二本の枝に別れていたものが、安部の小説世界では一つの球根に融けあっているとしても、驚くことはないだろう。いま以上に迷ったりする気遣いはないのだから。ー(*2)

 最後に、カメラについて触れておきたい。安部の死後、デジタルカメラが急速に普及しその影響を受け安部が愛用していた銀塩カメラの市場規模は低下し、老舗のカメラメーカーの中にはカメラ事業そのものから撤退するという現象まで引き起こした。私自身も、銀塩カメラはメンテナンスが大変でとっつきにくいものを感じたが、デジタルカメラは場所もとらず、簡単で気軽に撮れるので愛用している。さて、安部がこの現状を見たら嘆くだろうか?私は、そうは思わない。むしろ、「何だい、それ?面白そうだね、君。僕にも触らせてくれよ。」と言いそうな気がしてならないのだ。

[注記]
*1.私の中の安部公房(『あさひかわ』平成十四年七月号(通巻439号)、P61・62)
*2.”著者の言葉ー『密会』”(安部公房全集26所収)に対するオマージュ

[付記]
 井村春光氏のエッセイをはじめ興味深い記事が多数あり、毎号本誌に目を通すのを楽しみにしていました。そのような一ファンに、二度も寄稿の機会を与えてくださったあさひかわ社及び渡辺三子様に厚く感謝申し上げます。
 なお、現在私はインターネット上で、ホームページ「安部公房解読工房」、ブログ「安部公房解読工房blog」、掲示板「安部公房を語ろう3」を運営しています。ウェブで検索していただければ、アクセスできますので、お気軽にアクセス・コメントを頂ければ幸甚です。ハンドル名は、”アレン”もしくは”w1allen”です。
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2007年03月11日

[原稿]私の中の安部公房

[原稿]私の中の安部公房

これは、郷土誌「あさひかわ」2002年7月号の特集”「安部公房」没後10年”に寄稿させていただいた文章です。今回、あさひかわ社のご厚意によって、ウェブで公開させていただく許可を得ました。安部公房との出会いなどについて筆をとったものです。

私の中の安部公房


 私が初めて安部公房の名を目にしたのは、彼の死亡記事だったと思う。夕刊の一面に出ていたので大作家が死亡したのだなと思ったが、それ以上の思いは格別なかった。彼の作品を読み始めたのは、それから三年ほど経ち、既に大学生になっていた時だった。暇つぶしに、「新潮文庫の100冊」の中の1冊に選ばれている『砂の女』を手にしたというそれだけだった。そこから始まって、安部の作品世界の探訪という「終わりなき道」を歩くはめになるとはその当時夢にも思わなかった。
 『砂の女』を読んで、まず驚かされるのは、砂や昆虫についての非常に精緻な記述である。砂の粒径についての文献引用や砂の問題が結局流体力学に属するものであるらしいという私見を入れるあたりは、まるで科学書であるかのような冷静で正確な記述である。それでいて、最初は頑なに抵抗していた村人の論理を受け入れてしまうという主人公の内面心理の変容を細部にわたり生々しく描いている。主観と客観の絶妙なバランスや世界観の逆転など、あらゆる意味で安部の小説は画期的な文学の新製品と言える。
 安部の作品は難解であるとよく言われるが、私は彼の作品が面白くて仕方がない。恐らくその当時、彼ほど読者を楽しませようと小説構成を考えてた作家はいなかったのではないだろうか?独特の比喩表現、漫才のような会話、そして多くの作品で見られた手記形式にこめられた切迫感などによって、読者を引き込ませる巧みなストーリー展開には、小説を面白くするためにはどんな手法も辞さないという貪欲さを感じる。しかし、それと同時に笑って済ませられない重大な問題も含まれている。例えば、「自由とはいったい何なのか?」ということについても困惑させられてしまう。束縛されない自由から束縛される自由を選んだ仁木順平を非難するには、一体どんな言葉が必要なのだろうか?彼の作品には、殺人や詐欺といった常識では犯罪になることがよく出てくるが、それらを単純に非難するのにはためらわざるを得ない。饒舌な加害者の方に負けてしまいそうである。では、寡黙な被害者は一体どこへ行けばいいのだろうか?いや、どこかで加害者と被害者という区分自体が意味を無くしてしまったのだろう。
 安部は、極めて論理的に常識を破壊していった。それは、私を固定観念の呪縛から解放してくれたが、同時に飛翔と墜落とが背中合わせの極めて危険な自由を与えられたことも忘れてはいけない。頁をめくるごとに、物語の創造と破壊を目の当たりにするのは面白くもあり恐ろしくもある。しかし、もはや読者という目撃者になった以上、その役を降板することもできないらしい。私は、彼の作品を読み続けなければならなくなり、今に至っている。極めて巧妙な仕掛けだなと、回転車を回し続けるアムダでならぬハムスターは思うわけである。
 なお、現在私はインターネット上で、「安部公房解読工房」という名のホームページを開設している。掲示板もあるのでお気軽にアクセスして頂きたい。
ハンドル名:アレン
URL:http://www.geocities.co.jp/Bookend/2459/novel.htm
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