2006年05月02日

[読む]安部公房と『カラマーゾフの兄弟』




少し前に、『カラマーゾフの兄弟』を取り上げたが、そのことでふと思い出したことがある。実は、私が読んだことのある唯一のロシア文学なのだ。新潮文庫で三冊という厚さ以上に重厚な物語だが、最後まで読みきれたのは、この作品の凄さにほかならない。僧侶として生きることを選択した主人公である三男アリョーシャ、頭脳明晰な故に世界を憂う次男イワン、剛直な長男ドミートリイ、そしてこの三兄弟の父にして、色を好む富豪フョードル。個性の強いカラマーゾフ家の人々たちの愛憎、ロシアの封建体制、キリスト教、無神論、社会主義・・・・・・、とんでもなくスケールの大きな物語である。

当時のロシアの身分制が揺らぎ、新しい公平な秩序を模索する風潮についてアリョーシャが尊敬してやまないゾシマ長老が、以下のように語る場面がある。
公平な秩序を打ちたてようと考えてはいるのだが、キリストを斥けた以上、結局は世界に地の雨を降らせるほかあるまい。なぜなら血は血をよび、抜き放った剣は剣によって滅ぼされるからだ。だから、もしキリストの約束がなかったなら、この地上で最後の二人になるまで人間は互いに殺し合いをつづけるに違いない。それに、この最後の二人にしてもおのれの傲慢さから互いに相手をなだめることができず、最後の一人が相手を殺し、やがては自分も滅びることだろう。おとなしく謙虚な者のために、こんなことはやがて終るだろうというキリストの約束がなかったら、きっとこうなっていたに違いない。


妙に印象に残っている場面だ。恐らく「地上で最後の二人」という言葉が、私の感性を揺さぶらずにはいられないのだろう。ゾシマ長老は、キリストの約束がこの問題を解決すると信じたが、キリスト教徒でないものたちには物足りない解答である。いや、長老は、争うことをやめることができない人類を憂い、その最後の砦として、キリストの約束を持ち出したのではないだろうか?では、キリストの約束に代わる対案はないだろうか?

そして、それこそが、『幽霊はここにいる』と『方舟さくら丸』で取り上げられた問題と重なってくるように思う。前者では、戦争で取り残された二人が最後に残った一つの水筒をめぐる話がでてくる。また、後者は核戦争時代らしいテーマで、核シェルターで、生き残るべき人間は誰か?という問いが発せられている。

安部は、『方舟さくら丸』のあとがき"自作を語るー『方舟さくら丸』"(安部公房全集28巻所収)にて以下のように述べている。
 たとえば大海に浮かんでいる一人乗り用のいかだ、それに二人の人間がとりついて、どちらかが死ななければどちらかが生き延びることができないという状況、これは昔から解答不可能なジレンマの例としてよく引き合いに出される話です。

中略

われわれ作家としては、解答がないことを承知で問い続けるということだけが唯一の解答ではないか、そういう腹構えでなんとかとっ組んでみたわけです。


ゾシマ長老の憂いに対する解答を、安部はその作家人生を通して模索していたのではないかとさえ思われてくるのだ。
posted by w1allen at 23:46| Comment(0) | TrackBack(1) | 安部公房を読みこむ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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