2020年03月15日

『砂の女』における性と婚姻制度について

残念ながらコロナ感染拡大防止の為、「砂の女」読書会は中止とさせていただきました。そこで発表予定だったものを投稿しますので、ご笑覧いただければと思います。

最近自身の婚活を考える機会もあり、今回は本作品の性や婚姻制度についての記述が気になるようになった。20節の男の独白が、映画では冒頭にありとても印象的に感じる。男女関係を含む人間関係には多数の証明書が必要だ。「証文は、けっきょく、無限にあるらしいのだ…」それでも、男女関係には、まだ何らかの証明書が必要かもしれないと探り合ってしまうのだと。男は確かに理屈っぽい(本人曰く、事実が理屈っぽいのだと)が、求めているのは、性と愛の理想を求めるがゆえに、苦しんでいたのではないだろうか?

回数券とは、結婚を含む性の制度化のことだと思う。とすれば、回数券の偽造は、制度からの逸脱を意味するだろう。メビウスの輪の性欲理論(性欲を食欲になぞらえ、まず性欲一般というものがあり、その後に個別性の味がわかていくとするもの)をもっともだと思う一方、理論にくどかれる男も女もいないとも言う。純粋な性関係を夢想するわけではないと言うが、果たしてそうだろうか?性の解放などの夢を見るからこそ、「しまりの悪いカーテンを、たえず気にしながらの解放では、いやでも精神的性病患者になるしかないわけだ。あわれな指には、もう帽子をぬいでくつろぐ場所さえない」(20節)と失望するのではないだろうか?そこに、理屈っぽい男の隠されたロマンティシズムを感じずにはいられない。

淋病をきっかけに、ゴムなしの性行為ができなくなった。精神的強姦は気が進まない。セックスを、「互いに強姦し合うこと」と表現している。あいつ(妻のこと)からけしかけられても、性の押し売り(精神的強姦)はゴメンだという。

あいつとの不和もあり、新種発見を求め、3日間の休暇を取り砂丘にやってきた。往復切符のつもりであったが、縄梯子を外された瞬間から、片道切符となり監禁生活が始まる。しかし、戻るべき都市の生活の良さが特に思いつかない。教師生活も、入れ替わる生徒を眺めていく虚しさを感じ、教員仲間もメビウスの輪を除いて、会話らしい会話がない。メビウスの輪とも、結局は分かりあえない。

意図しない女と2人の共同生活を強要されたわけだが、回数券の偽造でもない、証明書のわずらわしさのない性の関係の可能性がそこにはあったのではないだろうか?

縄梯子を外されたとき、素裸の女をみる。いけにえ、つぐない、そんなことを考える。明らかな罠だろう。

男の砂を洗うシーンが何度かあるが、そのうちに特別な嗜好と表現されるようになり性的意味合いが出てくる。その分だけ脱出の意味が弱くなるような気がする。砂の穴を出て、砂あんこにつかまったあと、帰ってくるときにも砂洗いの儀式がある。

海を見るための交換条件として、村人の前での性交を求められ、女は拒否するにも関わらず、男は試みてしまう。女は「色気違いじゃあるまいし!」と言い、男も「おれは気が狂ってしまったのだろうか?」と自問自答する。結果失敗に終わるが、強姦以上の行為のようにも思う。

最後は、子宮外妊娠し、女は出血し激痛を訴える。女は連れされたが、縄梯子はそのままだった。その縄梯子を登り、往復切符を手に入れるが、その行き先も戻る場所もすぐに決めるつもりはないようだ。それよりも溜水装置のことを部落のものに話したい気持ちではちきれそうだという。最後は、家庭裁判所の審判書で締めくくられる。

○考えて出てきた疑問
女との関係に、結婚届も出生届もない。公然の秘密のような関係。しかし、村人の前の性交強要は、何かしらの手形を求められたのだろう。
制度にしばられないセックスの可能性も感じるが、結局制度に回収されるのだろうか?あるいは回数券の偽造に過ぎないのだろうか?
posted by アレン at 08:53| Comment(0) | 安部公房を読みこむ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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