2010年11月08日

松尾貴史のモノマネ

あれは中学生の頃だったろうか?だとすると、20年も前のことになる。岡本太郎が存命中で、松尾貴史がキッチュと名乗っていた頃の岡本太郎のモノマネが強烈に記憶に残っている。「僕はダリを真似したんじゃない、ダリが僕を真似したんだ」というようなことを言っていたと思う。そのときは変人だなと思った。いやそう思わされたのだ。中学生の頃に見るテレビの影響力には、抗う術はないと思う。
その後、岡本太郎を自分なりに評価できるようになったのは、自分で岡本太郎についての書物や絵画などに触れたり、岡本太郎美術館に行くようになったり、安部公房全集で対談記事を読んだりするようになってからだった。
さて、松尾貴史のモノマネは、見事に私にバイアス(偏見)を与えてくれた。そのバイアスがなければ、岡本太郎についてもっと早いうちに、そしてもっとニュートラルな立場で評価できたかもしれない。そういう可能性があることを否定はしないが、実は松尾貴史にお礼が言いたい気持ちもある。
それは、「他人を評価するためには、自分で資料を集め、自分の目にその芸術家がどう映るか自分に問わなければならない。」という教訓を与えてくれたからだ。また、自分の意見がなく、他人の評価を鵜呑みにする人が意外と多いことを教えてもらったような気がする。
タグ:TV art
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2010年11月04日

あなたと安部公房とのファーストコンタクトを教えて下さい

あなたと安部公房とのファーストコンタクト(最初の接触)を教えて下さい。
私の場合は、高校生の時に読んだ夕刊に掲載された安部公房の死亡記事でした。えらい作家が死亡したのだなと思いましたが、それ以上の思いは格別ありませんでした。その作家がドえらい作家であることを知るのは、大学生になってからでした。
今から思い返すと、小説でなく新聞を通してファーストコンタクトがあったこと、そしてなおかつそれが死亡記事であったことが、『終りし道の標べに』(冬樹社版、安部公房全集019所収)の書き出し「終わった所から始めた旅に、終りはない。」を想起させます。
私は必死に安部公房の足取りを追いつづけているつもりですが、死去という終わりから始めたこの追走劇は、逆に自分のほうが安部の方から問われ、追われているのではないかという疑念さえ生じています。

あなたのファーストコンタクトはどんなものでしたか?この記事に対するコメントもしくはトラックバックをしていただければ幸いです。

[関連企画]
あなたの好きな安部公房の作品を教えてください

タグ:contact
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2010年11月03日

三浦雅士の『メランコリーの水脈』

三浦雅士の『メランコリーの水脈』を読み返しました。数年前に読んだときは正直あまり感銘を受けなかったのですが、今回は大変面白く読めました。戦後の日本文学をメランコリー(憂うつ)というキーワードで、串刺しにした意欲作です。

冒頭「メランコリーの水脈」では、安岡章太郎の『相も変らず』を取り上げて、
では何が問題なのか。自分で自分の真意がわからないということが問題なのだ。ではなぜ自分の真意がわからないのか。ー自分がいまここにこのようにしてあるというその事実がどこかしら腑に落ちないからである。真意がわからないということより自分がわからないのである。そして、このわからなさは、いうまでもなく、自分の自分に対する隔たりから発生している。すなわち、この図式もまた基本的にメランコリーに属しているといってよいのだ。


何という卓見でしょう。自我という最大の謎との対決を回避できない現代文学の状況、そしてその病理をものの見事に表しています。「何故に人間はかく在らねばならぬのか?・・・・・・」という存在論的疑問から始まる『終りし道の標べに』の冒頭ともリンクしているように思われ、共感できるものがありました。

続きは、また近日中に。

タグ:mind novel review
posted by w1allen at 22:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 安部公房を読みこむ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする